写経・写仏

写仏をしながら屁理屈を語りかける

2017年9月12日

百済観音

起きてすぐ、ぼーっとした頭と体で

2枚、へたくそな写仏を、また・・・しました。

毎月、一仏づつ、セットを買っています。

 

もう、視力がかなり落ちていて、

写真をうまく写せません。

いつもぼけています。

 

観音様など、実際あの世にいるわけでもなく、どこかの世界にいるわけでもないのに、心のよりどころにするには、やはり形がないと、人は不安だったのだろうな

とか、

偶像崇拝というのだろうか?

偶像崇拝で何がわるい

とか、

人は、絶対的なよりどころを、無意識に求めていたんだろうな

とか、

こんなことを考えながら、写仏をしても、「罰が当たる」だろう

とか

お寺にいかないと・・・お寺に行ったからとて何になる。意味もないこと・・・

とか、

 

結局、

「罰が当たる」などと、偶像崇拝を無意識にしているのか?

とか、

仏教なんて、宗教なんて、

時に、誰かのお金儲けであったり

時に、偽善の大儀であったり

時に、そこしかない便であったり

とか、

シニカルな事を考えながら、

「ならば、なぜ写仏などしている」

と、自問自答をする。

 

答えは簡単。

百済観音であろうと、

他の仏像、観音像、阿修羅像であろうと、

全部、自分の一部

 

だから、好き勝手な事を言いながらも

内なるよすがなのだ。

 

多分、そう。

 

屁理屈で、自分に語りかけながら

内にいる百済観音と今日は対話していたんだろう。

 

百済観音は、そんな屁理屈な問いかけには何も答えない。

本当に、私が語りたいことは、そんなことではない。

では何を・・・何をか・・・をお見通しだから。

 

「心」は届けられただろうか。

 

 

何か、語りかけてきそうな百済観音像

口元が動き出しそうな像。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA