死ぬこと生きること

『折角なのでもう少し生きてみよう』と思うまで

2017年7月4日

 

『死にたい』という人

 

本当に生きる気概というか気力というか、

そういうものがなくなると、「死にたい」とは言わなくなるものです。

 

「死にたい」「死にたい」といっているうちは、

誰かを求めているのだと思います。

 

「死なないで」といってくれる誰かを。

 

でも、それは

「死んではダメ」とか、

「死んだらおしまい」とか、

「死んだら負け」とか、

「命は大切に」とか、

 

おそらく、

そういう言葉を欲しているわけではないでしょう。

 

 

むしろ、そのような声かけはうっとうしいと思うかもしれません。

 

だって、そんなことは誰に言われるまでもなく、

「死にたい」と口にしている本人が一番わかっています。

 

わかっているから、生きることから逃げているような

自分のその心根さえ嫌になっているはずです。

 

ですから、そこにそんな言葉をかけるのは、

その人にとっては、追い討ちにすぎないのです。

 

「甘ったれている」

確かにそうでしょう。

そういう場合もあるでしょう。

 

しかし、

なぜ死にたいのかの背景は

それぞれ違うので、ひとくくりにはなりません。

 

カウンセラーという肩書きを持つ人が、

ネット社会になってやたら増えましたが、

でも、万人に値する、あれしてこれしてこれ言ってなんて

パーフェクトなマニュアルなどないのです。

 

 

「続けること」です。

一度や二度ではなく、仕事ではなく……です。

 

ベタベタせずに、ほどよい距離感をおいても、

「忘れないでいてあげること」

「いつでも声かけてね」と口にはせずとも、

そのようなところにいてあげること。

 

美味しいものを食べたら、

「これ好きだから、おみやげにしてあげよう」と、

自然に思い出してあげられる。

そういうことではないでしょうか。

 

簡単そうなことだけど、実は続かないものです。

「してあげる」「やってあげてる」

マニュアルな親切は続きません。

 

 

目の前にいるときだけ、相談事をされたときだけ、

「あなたのそばにいるからね、どうしたの?
死んじゃだめよ、死んだら負けよ」

と、心配の言葉を連呼して声をかけることは、とても簡単。

でも、残念ながらそれが響くことは少ない。

 

なんでもないとき、そばにいないとき、姿が見えないとき、

思い出してあげられること、

声をかけてあげること、

心寄り添っていてあげること

そちらのほうが、ずっとずっと

ケア効果は大きいのではないでしょうか。

 

そして、そちらのほうが難しいことですよね。

 

生活もあるし、自分の用事も。。。と、ね。

そういうふうに考えていることは相手にも伝わります。

心配しなきゃ、親切しなきゃの対応は、相手に伝わります。

 

「心寄り添って、いつでも心そばにある」

 

心寄り添って心はいつもそばにあること

これを、悩んでいる家族や、死にたいと口にする友人に

気づいてもらうことですね。

 

ごり押しはむしろ逆効果。

 

「私も大変だった」
「あの人の方が大変」

こういう言葉は、

死にたいと口にする人にとっては、最悪な言葉です。

 

 

そして、とにかくまだ間に合うのです。

「死にたい」と口にしている間は。。。

 

もし、そういう人がそばにいるなら、

寄り添うことをやめないで

心寄り添うことだけ、ずっと続けてあげてください。

 

 

心から、そう思います。

 

「死にたい」は、実は「生きたい」というシグナルです。

 

「生きたいけど、このままでは私は死んでしまう」

という

自分への恐れなのです。

心が折れている状態です。

 

生きていれば、

そのうち、また笑顔になれる日は、誰でも必ずあるのですから。

小さな笑顔の積み重ねをしていくうちに、状況はまた変わっていきます。

大切な人を失う前に、もっともっと気にかけてあげてください。

 

 

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